人間初心者のための人間一周目ブログ

双極性障害を患っている一児の母の人間一周目備忘録。

双極性障害とともに生きていく

みなさんこんにちは。

はじめましての方のほうが多いかもしれないので、自己紹介からしていこうと思います。

 

 

はじめまして、知瀬はじめと申します。

一児の母であり、双極性障害を患っている、特に面白いことも言えないような人間です。

 

私に双極性障害と病名がついたのはつい最近のことです。

初めて精神科を訪れたのが14歳の頃だったので、それから14年後にようやく双極性障害であると診断されました。

診断名が変わったときは長年の謎が解けたので嬉しい反面、なんとなく複雑でした。

 

14歳のときに初めて訪れた精神科では「うつ状態である」としか診断されず、抗うつ薬もまったく効かないといった状況です。

その後自己判断で通院を中断し、転院を繰り返し、転院するたびに自律神経失調症適応障害うつ病と診断され、本当の私がなんなのかわからなくなっていました。

それでもなんとか生きてきて、今こうしてブログを書いています。

 

生きていくのに向いていないんだなぁと漠然と感じた日もあれば、どこからともなく自信が湧いてきて人生が楽しくて仕方ないと思った日もあります。

高所からの景色や線路を見ると自然と吸い込まれるような感覚に陥った日もあれば、天井を見ているだけで楽しくてつい声を出して笑ってしまう、なんて通常では考えられないようなことも経験しました。

 

私にとっての人生はジェットコースターと同じでした。

勝手に上がって、勝手に下がって、振り回され、自分の力ではコントロールできないようなもの。

抵抗しても大きな流れを前に逆らうこともできず、流れ着くままに激動の人生を歩んできました。

 

それが異常なことだろうとは薄々感じながらも、診断してくれる人がいない。

「変な人」「感情の振れ幅が大きい人」「一貫性のない人」周囲からはそう見えていたと思います。

私もそう思います。

  • 自分の意見がころころ変わってしまう
  • 感情をコントロールできず振り回されてしまう
  • 自分にとっての50%がなにかわからない

おそらく、最初に違和感を覚えたのはこの3点だったと思います。

 

毎日自分が誰なのか、今の自分はどの立場でいるのかを自問していました。

気分が高揚しているときは根暗な自分の考えが一切わからない。

気分の落ち込みが著しいときにはテンションの高すぎる自分の考えが理解できない。

 

自分の中に自分が3人いる感覚なんです。

1人は、気分が高揚しやすいポジティブで攻撃的な自分。

1人は、気分が落ち込みやすいネガティブで引っ込み思案な自分。

もう1人は、俯瞰的に物事を冷めた目で見る中立な自分。

 

この感覚は、双極性障害の人特有のものだと勝手に思っています。

違ったらごめんなさい。

でも、双極性障害じゃない人にこの話をすると理解してもらえないので、たぶん特有のものでしょう。

 

私は、自分が障害者になるなんて思ってもいなかったです。

うつ病と診断されたときも、障害者という自覚はありませんでした。

生きづらいとか、日常生活に著しい制限があるとか、今の日本は私にとって不自由なことが多いとかは何度も思ってきたけれど、その考えが障害に結びついてはいなかったのです。

無知とは恐ろしいですね。

 

今、私は精神障害者福祉手帳の申請をしています。

申請してからはじめて気づいたんです。

障害者になるって、怪我をしたから絆創膏を貼るってくらい当たり前で身近なことなんだな、と。

 

いつか精神障害者福祉手帳の申請方法とか、双極性障害についてだとか、説明できたらいいなぁと思っています。

偏見をなくすことはできないけれど、少しでも双極性障害の当事者からの声が発信できれば、もう少し生きやすい世の中になるんじゃないかなぁと、漠然と考えております。

 

人間って1人じゃ生きられないんですよね。

人間は社会的な生き物なので、支え合ったり助け合ったり、ときにはすれ違ったりしながら生きていくんです。

難しいけれど、きっと、いつか出会えると思うんです。

 

私の場合、双極性障害の混合状態のときに助けを求めて電話をかけまくったことが救いに繋がりました。

誰でもいいから助けて。

じゃないと死んじゃう。

死にたい。

どうしよう。

そんなことを考えてぐちゃぐちゃになっていたときです。

心は元気じゃないのに身体は元気で、焦燥感に突き動かされるまま住んでいる自治体の区役所に電話しました。

 

面談の日程を決めて、困っていることを相談して、職員の方にいろいろな福祉制度を教えてもらいました。

そのうちの1つが精神障害者福祉手帳の申請です。

1人では手帳の取得まで考えが至らなかったと思うので、区役所に助けを求めてよかったと思っています。

 

手帳の取得にはメリット・デメリットありますが、いつか障害者雇用で働けるようになったらいいなぁと考えています。

焦らず無理せず体調と相談しながら、ですが。

 

それと、もう1つ。

病気がそうさせるからじゃなくて、自分で自分を好きになれるように生きていきたい。

 

 

もしかしたら今日はポジティブが強いので躁状態寄りかもしれませんね。

気分は5段階で3番目くらい、といったところなんですけど。

自分のことが一番信用できないので、今日はこのへんでおしまいにします。

 

閲覧ありがとうございました。

次回またお会いできることを楽しみにしております。

 

 

学校に通いたくないなら、無理して通う必要なんてない

現在、「不登校」が社会問題になっているそうですが、不登校のなにがいけないの?と思っているのは私だけではないはず。そもそも、"学校は通うもの"という固定概念は時代に合わないのではないでしょうか。

不登校になってしまう要因はさまざまだとは思います。かく言う私は元・なんちゃって不登校児ですし。

前々から常々思っていた「学校に通わないからって罪悪感を覚える必要はない」という話をしていこうと思います。

学校ってなにをする場所か知っていますか?

学校には通わなきゃいけないものだ、と思っている方も多いでしょう。ですが、学校とは、本来、教育を施す施設や場所のことをさしているので、必ずしも地図上に存在する住所に通わなくちゃいけないとは限らないんです。

 

がっ‐こう〔ガクカウ〕【学校】 一定の教育目的に従い、教師が児童・生徒・学生に計画的・組織的に教育を施す所。また、その施設。特に、学校教育法では幼稚園・小学校・中学校・高等学校・中等教育学校高等専門学校・特別支援学校・大学のこと。→学校教育法 (引用元:デジタル大辞泉|コトバンク

通信教育や通信教材だって、学生に計画的・組織的に教育を施してくれます。ネット上にも住所のようなもの(ホームページアドレス)がありますし、立派な学校としての意味を果たしていますよね。

そうすると、通信教育や通信教材は「通う=ホームページアドレスを開く」ことになるので、「物理的に本人が学校に赴くこと=通学」とは言えないのではないでしょうか。

 

義務教育期間が終了していれば、登校自体が本人の意思による行動なので、通う通わないも本人の選択です。高校や専門、大学に通いたければ通えばいいし、通いたくなければ通わなくてもいいんです。

勉強するかしないかは本人次第。他者が他者の人生に首を突っ込んだって、最後まで面倒見切れないんだからやめておけよって話なんですよ。

 

それに通信教育や通信教材だって溢れているこの時代に、学校に通わないことだけを責めるのはお門違いと言えるでしょう。

義務教育だから「通わなくちゃ」は間違い?

まず、日本には義務教育がありますよね。

第4条 (義務教育) 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。 (引用元:第4条(義務教育)文部科学省

第4条のとおり、小学校の3年間と中学校の6年間、合わせて9年間が義務教育期間です。

第五条 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。 (引用元:(引用元:第4条(義務教育)文部科学省

日本で生活するにあたり、子を保護する者(保護者)は子に普通教育を受けさせる義務があります。

保護者には子に普通教育を受けさせる義務がありますが、子は普通教育を受けなくてはならないという決まりはありません

つまり、保護者は子に普通教育を受けられるように環境を整える義務はあるけれど、子が嫌がるなら強制する権利はないのです。

 

少し前に不登校の小学生YouTuberが話題になりましたよね。彼には"学校に通う義務"はないため、不登校でも問題はないのです。

不登校の定義

全国の不登校児、14万人超え。

文部科学省によりますと、年々不登校は増え続けており、平成29年度の調査では不登校の小中学生は14万人を超えているそうです。前年比15.1%増。

 

この数字だけ見ると「うわ」と思ってしまうかもしれませんが、かなり低く見積もっての14万人です。

よくよく考えてみると不登校の定義がよくわかっていない方も多いと思うので、一度定義を確認してみましょう。

不登校児童生徒」とは「何らかの 心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、 登校しないあるいはしたくともできない状況にあるために年間 30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を 除いたもの」と定義しています。(引用元:不登校の現状に対する認識文部科学省

年間30日以上の欠席って、以外とハードル低いですよね。それに、病気や経済的な理由による者を除くというのも、なんだかよくわかりません。

不登校になる理由は学校内にだけ存在する場合はほとんどなく、さまざまな要因が組み合わさって「結果的に不登校になる」人が大半です。その場合、さまざまな要因で心身を病んでしまった結果学校に行かなくなった人は不登校になるのかならないのか、はっきりしないですよね。

 

それに、「授業は出席しないけど部活だけ行く」や「ある授業だけ出て途中で帰る」というのも問題だと思うのです。こういったどっちつかずな登校スタイルをしている人たちを「なんちゃって不登校」と仮定しましょう。

「なんちゃって不登校」について、教師や友人たち、親までもがそれほど深刻だと思っていなくて、ただのサボりだと思われる。ただのサボりにしか思われないから、投げ付けられる言葉は鋭くて痛いんです。

調子がよくなったから学校に行ったのに、余計傷が広がって帰ってきた、なんてこともあるんです。笑っているから、サボっているだけだから大丈夫なんて、そんなことないんですよ。

"うちの子かにぎって……"は親のエゴ

よく、「うちの子は不登校になんてならない」という親いますよね。「うちの子はいじめなんてしない、されない」とか、根拠のない「うちの子にかぎって」という言葉。

親が自身を安心させたくて言っているのか、それとも子供ときちんと向き合っていないから勝手な想像で判断しているのか定かではないですが、「うちの子にかぎって」という言葉はただのエゴでしかありません。

子供にとって親は、生活のすべてに決定権を持つ絶対的な存在です。そんな人から「うちの子は大丈夫」なんて言われてしまったら、本音がどうであれ「大丈夫です」としか言えなくなってしまいます。

もし子供が不登校になったら、親の立場なら動揺してしまうでしょう。動揺してもいいんです。でも、子供の人格や個性を否定しないで、まずは本人の意思を確認してあげてください。

思うようにいかず苦しんでいるのは親だけではなく、子供もです。

中には、理由や願望をうまく言葉にできない子もいるでしょう。むしろ、なぜ不登校になったのかを説明できる子の方が少ないくらいですから、明確な答えなんてないと思っていてください。

"選択的不登校"という選択肢

どのような場合であれ、子供の「学校に行きたくない」という意見は尊重されていいはずです。"みんなと同じように"を強要される時代は終わりました。

「勉強=学校に通ってやるもの」というのは前時代的な固定概念でしかなくて、通信制の学校とか、高卒認定試験とか、もっと広く普及していいのではないでしょうか。最近では私立大学の通信学部が増えているようですし、小学校・中学校にもできていいんじゃないかなぁと。

 

勉強が苦手でついていけないとか、友達や教師になじめないとか、本人の個性や特徴を著しく傷つけられるとか、ただなんとなくとか、朝起きるのがつらいとか、なぜか学校に行こうと思えないとか、理由は不登校児の数だけあることでしょう。

中には、「学校楽しいぞー」とか、「学校来いよ」とか言ってくる教師やクラスメイトもいるでしょうけど、その人たちもあんまりわかってないですよね。行きたくない、行けるような気分じゃないから行かないのであって、わざわざ介入してこないでいいんです。

特に、あなたのためを思って言ってるの系の人。迷惑でしかないので、せめて「来たくなったら来ればいいんじゃない?」的な言い方だとありがたいです。

関係ない大人たちが好き勝手に、あぁでもないこうでもないと言っていいものではないのです。学校なんてものは、行きたくなったら、行けるときに行けばいいんです。

学ぶ意欲がなければ、どんなに素敵な講師に熱心に教えてもらっても身に付きません。社会に出るタイミングも、なにかを学ぶタイミングも、個人の準備が整い次第でいいんじゃないでしょうか。

結論:無理して通う必要なし!

個人的には、学びたいと思ったときが学び時だと思っています。

小中学校は無理して通わなくても卒業できますし、高校も通いたくなければ通信制の学校という選択肢がある。途中で転校したっていいじゃないですか。

それに、学びたいと思ったときに自分でお金を貯めて、自分のお金で勉強する方が、時間を大切にできます。ぼーっと授業を聞くだけの人よりも知識をつけられます。

勉強する方法はいくらでもあるんです。勉強するためには学校に通わなきゃいけない、なんてことありません。

勉強したくなったら勉強しましょう。つらい思いをして学校に通って心身が壊れてしまうくらいなら、無理して通う必要ないです。

 

以上、元・なんちゃって不登校児のもちこでした。

生きづらさから抜け出せないときに思い出してほしいこと

はじめまして。知瀬はじめと申します。

このブログを読んでいるということは、あなたも今の世の中に生きづらさを感じているのでしょうね。

もしそうだとしたら、私も同じです。

声を大にして言います。めちゃくちゃ生きづらい。この世界ってめちゃくちゃ生きづらい。

生きづらいってどういうこと?

オーケストラの中に楽譜も読めないリコーダー奏者として混ざってしまったような場違い感。それが私の思う生きづらさです。

 

考えてもみてください。小学生が音楽の授業で使うようなリコーダーで、昔の偉大な作曲家の作った曲を演奏するようにと、なぜか舞台にあげられてしまったところを。

リコーダーに席は用意されていません。優しく微笑みかけてくれる人の横に椅子を用意しようとしたら「違うよね」とやんわりお断りされる。

指揮者の人は困った表情で「早く準備してね」と言うだけで、具体的な指示をくれない。仕方なく同じような見た目のクラリネットの隣にいこうとしても、無言で首を横に振られるだけ。

誰もなにも教えてくれない。当然、「それくらい自分で考えなよ」なんて野次もとんでくる。

中には面白がってくれる人もいるかもしれないけど、それは遠目から見てるから面白いのであって、隣に座ろうとすると急に知らん顔。「迷惑かけないで」とちゃんと言ってくれるならまだいい方で、こちらを一度も見ない人だっているんだ。

仕方なく、どこか目立たない隅っこに椅子を置いて練習に参加するとしよう。

楽譜が読めないから曲をちゃんと演奏できない。面倒見のいい人が楽譜の読み方を教えてくれたとしても、曲が始まればその人は自分のことに集中してしまう。

指揮者の指示した小節もわからない。楽譜をめくる指は震えるし、リコーダーの穴を上手に押さえられないから音がピーピー鳴ってしまう。

時間がきた。幕が上がる。

暗闇と同化している観客たちは、舞台上のオーケストラの演奏を今か今かと楽しみにしていることだろう。

逃げる場所を失くしたリコーダー奏者は、舞台にあげてくれた人の期待に応えることも、観客の期待に応えることも、指揮者の、オーケストラのメンバーの、そして自分への期待に応えることもできなかった。ただ頭が真っ白で、逃げ出したくて、身体が動かないまま、自分がみじめだと思った。

楽譜の読めないリコーダー奏者はどうしたらいいんですか。なんで誰も教えてくれないんですか。

練習する時間も、場所も、なにもくれないくせに。楽譜が読めないとわかっててこの舞台に上げたくせに、と。

 

このリコーダー奏者がオーケストラの演奏を邪魔しないためには、幕が上がる前に舞台から降りる必要があります。何事もなかったかのように、痕跡も全部消して。

それが私の思う生きづらさです。自分が”恥ずかしい勘違いさんである状況”こそが生きづらさを感じるポイントだと勝手に解釈してます。

生きづらいなぁと感じるとき

あなたが生きづらいと感じるときって、どんなときですか?

私の場合、だいたいこんな感じです。

  • 居場所がないとき
  • 自分だけ馴染めていないとき
  • 周囲みたいに上手くできないとき
  • 集団の中にいても孤独を感じるとき
  • 愛想笑いがつらいと思ったとき
  • なんでもかんでも決めつけられるとき
  • 自分のペースを無理に変えなきゃいけないとき
  • 私が思い通りにならないからって怒鳴られたりするとき
  • 意味のないことを強制されるとき

こんなとき、だいたい「あぁ、無理!」って全部投げ出してしまいます。やらなきゃいけないことの途中だとしても。

オーケストラの例に当てはめると、リコーダー奏者は私です。舞台は世の中とか世界とか、私を取り巻く環境で、オーケストラは周囲の人たちですかね。

 

似たような経験ってないでしょうか?学校っていう場所がこれに近いんじゃないかなと思います。

狭い部屋で同じような服を着た同じ年齢の子たちが、同じように前を向いて授業を受ける。全部同じにしなくちゃいけないのに、わざわざ他者からの評価を気にしなくちゃいけなくて、同じことができないと怒られる。

これができなくちゃおかしいとか、これができて当たり前とか、そういうのいちいちうるさいなぁって思ってました。個性だとか人間性だとかを重要視するくせに、同じようにできないと他者から後ろ指さされる。

なんでできないんだって自問自答を繰り返したところで、できないものはできないんです。怒鳴られても殴られてもできないんだから、卒業するまでなんとか耐えるしかない。

生きづらいったらありゃしないですね。

生きづらいのは世の中のせい?

生きづらいのって、自分以外の存在を過度に意識するからだと思うんです。世の中の空気とか、世間体とか、上司とか、友達とか、親とか、誰かのご機嫌伺いをして「もっとこうしなくちゃ!」と焦ってしまうからじゃないですかね。

 

たとえば、先ほどのオーケストラの話。

「リコーダーだって素敵な楽器なのに変な言いがかりをつけるな!」とか「楽譜が読めないなら練習すればいいのに」とか「そもそもリコーダーでオーケストラに入る状況がわからない」とか「音楽を愛していればオールオッケー!」とか、いろいろなご指摘ご意見があると思うんです。

言ってあげなくちゃ!とか、教えてあげなくちゃ!とか、度が過ぎる正義感ってちょっとおこがましい気がします。度が過ぎる正義マンや自称・優しいお節介さん、一言申さずにはいられない中立マン、世の中に溢れた声の大きい人たちに圧倒されて生きるのってめんどくさいんですよ。

指摘も意見も個人の見解として尊重すべきものですが、じゃあそれってどう考えればいいんでしょうね。多様性を認める認めないとかだと話が大きくなりすぎて難しいので、「そういう考える人もいるんだよね、でも私はこう思う」程度で飲み込めば少し楽になれる気がしました。

 

リコーダーは素敵な楽器。でも、オーケストラの中でリコーダーは流石に浮くと考える人もいる。

楽譜の読み方は覚えればいい。でも、時間がないときは覚えられないから仕方ないよね。

音楽を愛していればオールオッケー。でも、飛び入り参加するときは仲間内での遊びだけにしておこう。

 

その程度でいいと思うんです。隣人を愛する前に隣人を睨みつけてる方々には、適度にあしらって今日の晩ご飯について考えましょう。その方がハッピーになれます。

なぜあなたは生きづらいのか

たとえば、病気。数年後には死んじゃうかもしれない不治の病だとか、日常生活に制限があるようなものとか、風邪をひきやすいとか。

あるいは精神障害。気分の波が激しくて自分をコントロールできなかったり、一生薬を服用し続けなくてはならないとか。

ほかにも身体障害、発達障害セクシャルマイノリティ毒親に育てられた、その他誰にも相談できないようなことを抱えている場合、生きづらいのは当然です。だってこの世界は平均値の人が生きやすいように設計されてるんだから。

無理してまで頑張るのは必要なことなの?

無理して生きなくてもいいや。そうやって肩の力を抜いて背中の荷物をぶん投げてみてもいいと思うんです。

わざわざ無理する必要はないです。適当に、適度に、なんとなーく、あぁ今日も生命維持に努めてますってくらいでいいんですよ。

無理して縋り付こうとするものって、案外そんな価値ないと思うんですよね。結局勘違いだったりして、投げ捨てると新しい選択肢がでてくるのが世の常でしょう。

生きづらさの原因は過度なポジティブ信仰が原因?

なんとなくありますよね、過度なポジティブ信仰。ネガティブは悪でポジティブは正義みたいな、よくわからない理論で出合い頭に殴りかかってくるような人とか。

今の世の中、断定するのって危険だと思うんですよ。なにが正解かなんて、本人にしか見つけられないことばかりなのに。

 

webライターとして仕事をしていたころ、クライアント様からの注意事項で多かったのは「ネガティブワードNG」でした。否定的な言葉だけがNGなのではなく「読み手が探しているのは楽しくなる話題」と断定していたのです。

でもそのくせに「導入文には恐怖を煽る文を入れろ」と。「読まないと悪いことが起きるぞ!」と続きを読ませるように促して、「こうならないためにも頑張りましょう!」で結ぶために、内容は明るく前を向く必要があるそうです。

そりゃあそのクライアント様のサイトの傾向ということも理解できるんです。でもね、それを差し引いても、大多数のサイトでネガティブNGにしてるってちょっと恐ろしいですよ。

これって結構危険な思想ですよね。否定NGなのにネガティブは否定するって。

排除していいものは徹底的に排除して、なかったことにする。ネガティブは悪って風潮が生まれるのは、こういった背景があるからなんですよ。

 

ネガティブにもいろいろあるのに。全員が全員、他者の喜ばしい話に頬を緩めるわけではないのに。

"生きる資格"なんて存在しない

生きるために資格は必要か。yesかnoかの2択なら、あなたはなんて答えますか?

 

私の答えはnoです。だって、生きていていいよ、って誰かに言われなくても、もう呼吸しちゃってるし。

そりゃあ看護師とかの国家資格があれば就職に困ることもないでしょうし、車の免許があれば雨の日でも快適なお出かけになるでしょうけど、”生きる資格”ってそういうものじゃないでしょう。

勝手に生きて、勝手に死んでいくのが命の道理なのかなって思ってます。

まだ生きていてほしいと願っても、命は尽きるんです。早く死なないかなって思う人ほど長生きするし。

 

でも、心は違うんですよね。

誰かの言葉に生かされて、誰かの言葉に殺される。

大好きな人に「生きていて」って言われただけで、無条件で「生きていていいんだ」って思えたりする。それも全部本人の選択なんです。

他者の介入によってもたらされた、本人の選択。

毎日目の前の”とりあえず生きる”ボタンを連打して、ご飯食べて、トイレ行って、それとなーくカーテンの隙間からお日様見て、寝る。

その程度のことだと思うんです、生きるって。

生きやすい世界について考えてみた 

私にとっての生きやすい世界。万人受けしない世界だとはわかってるけど、少しだけ考えてみました。

理想の世界はこんな感じ。

  • 無理して働かないでもなんとか生きていける
  • ”みんな同じ”を求めすぎない
  • 上司や親が絶対的な権力を持たない
  • 公共交通機関はいつ乗っても空いてる
  • 外部からの音をシャットアウトできる住宅ばかりになる
  • 学校はフリースクールが増える
  • 個人の適正や能力が尊重される
  • 近所に大きな図書館があってしかもだいたい空いてる
  • 困ったときの逃げ場所は常に一定数存在する

ざっと思いつくだけでこんな感じです。かなり自分だけに都合のいいようになっています。

引きこもりがちで疲れるとすぐに聴覚が過敏になる私。人混みも狭い空間も苦手なせいで、都会の電車に乗れない。

だからって近所のスーパーまで徒歩1時間とか、そういうのも困る。広い家に1人ぼっちで毎日暇を持て余すことになったら発狂してしまうだろう。

 そうなったらどうするか。私にとっての生きやすい世界と、もうすぐ5か月になる元気いっぱいの息子が生きやすいと思う世界は違うから、この案はボツです。

 

じゃあ、せめて逃げ場所だけは確保したい。物理的な逃げ場所と心理的な逃げ場所の両方は、せめて誰にでも等しくあってほしいと思う。

この逃げ場があるかないかが、人間の成長に重要なんじゃないかなぁ。

いまさらながらの自己紹介 

こももも もちこ

高卒専業主婦です。20代後半に差し掛かってます。

保有資格は原付免許のみ。

母親としては超初心者。唯一の自慢はポケモン歴20年以上ってことだけ。

現在精神科に通院中。通ってて意味があるのかと問われると私の場合は返答に困る。