生きづらさから抜け出せないときに思い出してほしいこと
はじめまして。知瀬はじめと申します。
このブログを読んでいるということは、あなたも今の世の中に生きづらさを感じているのでしょうね。
もしそうだとしたら、私も同じです。
声を大にして言います。めちゃくちゃ生きづらい。この世界ってめちゃくちゃ生きづらい。
生きづらいってどういうこと?
オーケストラの中に楽譜も読めないリコーダー奏者として混ざってしまったような場違い感。それが私の思う生きづらさです。
考えてもみてください。小学生が音楽の授業で使うようなリコーダーで、昔の偉大な作曲家の作った曲を演奏するようにと、なぜか舞台にあげられてしまったところを。
リコーダーに席は用意されていません。優しく微笑みかけてくれる人の横に椅子を用意しようとしたら「違うよね」とやんわりお断りされる。
指揮者の人は困った表情で「早く準備してね」と言うだけで、具体的な指示をくれない。仕方なく同じような見た目のクラリネットの隣にいこうとしても、無言で首を横に振られるだけ。
誰もなにも教えてくれない。当然、「それくらい自分で考えなよ」なんて野次もとんでくる。
中には面白がってくれる人もいるかもしれないけど、それは遠目から見てるから面白いのであって、隣に座ろうとすると急に知らん顔。「迷惑かけないで」とちゃんと言ってくれるならまだいい方で、こちらを一度も見ない人だっているんだ。
仕方なく、どこか目立たない隅っこに椅子を置いて練習に参加するとしよう。
楽譜が読めないから曲をちゃんと演奏できない。面倒見のいい人が楽譜の読み方を教えてくれたとしても、曲が始まればその人は自分のことに集中してしまう。
指揮者の指示した小節もわからない。楽譜をめくる指は震えるし、リコーダーの穴を上手に押さえられないから音がピーピー鳴ってしまう。
時間がきた。幕が上がる。
暗闇と同化している観客たちは、舞台上のオーケストラの演奏を今か今かと楽しみにしていることだろう。
逃げる場所を失くしたリコーダー奏者は、舞台にあげてくれた人の期待に応えることも、観客の期待に応えることも、指揮者の、オーケストラのメンバーの、そして自分への期待に応えることもできなかった。ただ頭が真っ白で、逃げ出したくて、身体が動かないまま、自分がみじめだと思った。
楽譜の読めないリコーダー奏者はどうしたらいいんですか。なんで誰も教えてくれないんですか。
練習する時間も、場所も、なにもくれないくせに。楽譜が読めないとわかっててこの舞台に上げたくせに、と。
このリコーダー奏者がオーケストラの演奏を邪魔しないためには、幕が上がる前に舞台から降りる必要があります。何事もなかったかのように、痕跡も全部消して。
それが私の思う生きづらさです。自分が”恥ずかしい勘違いさんである状況”こそが生きづらさを感じるポイントだと勝手に解釈してます。
生きづらいなぁと感じるとき
あなたが生きづらいと感じるときって、どんなときですか?
私の場合、だいたいこんな感じです。
- 居場所がないとき
- 自分だけ馴染めていないとき
- 周囲みたいに上手くできないとき
- 集団の中にいても孤独を感じるとき
- 愛想笑いがつらいと思ったとき
- なんでもかんでも決めつけられるとき
- 自分のペースを無理に変えなきゃいけないとき
- 私が思い通りにならないからって怒鳴られたりするとき
- 意味のないことを強制されるとき
こんなとき、だいたい「あぁ、無理!」って全部投げ出してしまいます。やらなきゃいけないことの途中だとしても。
オーケストラの例に当てはめると、リコーダー奏者は私です。舞台は世の中とか世界とか、私を取り巻く環境で、オーケストラは周囲の人たちですかね。
似たような経験ってないでしょうか?学校っていう場所がこれに近いんじゃないかなと思います。
狭い部屋で同じような服を着た同じ年齢の子たちが、同じように前を向いて授業を受ける。全部同じにしなくちゃいけないのに、わざわざ他者からの評価を気にしなくちゃいけなくて、同じことができないと怒られる。
これができなくちゃおかしいとか、これができて当たり前とか、そういうのいちいちうるさいなぁって思ってました。個性だとか人間性だとかを重要視するくせに、同じようにできないと他者から後ろ指さされる。
なんでできないんだって自問自答を繰り返したところで、できないものはできないんです。怒鳴られても殴られてもできないんだから、卒業するまでなんとか耐えるしかない。
生きづらいったらありゃしないですね。
生きづらいのは世の中のせい?
生きづらいのって、自分以外の存在を過度に意識するからだと思うんです。世の中の空気とか、世間体とか、上司とか、友達とか、親とか、誰かのご機嫌伺いをして「もっとこうしなくちゃ!」と焦ってしまうからじゃないですかね。
たとえば、先ほどのオーケストラの話。
「リコーダーだって素敵な楽器なのに変な言いがかりをつけるな!」とか「楽譜が読めないなら練習すればいいのに」とか「そもそもリコーダーでオーケストラに入る状況がわからない」とか「音楽を愛していればオールオッケー!」とか、いろいろなご指摘ご意見があると思うんです。
言ってあげなくちゃ!とか、教えてあげなくちゃ!とか、度が過ぎる正義感ってちょっとおこがましい気がします。度が過ぎる正義マンや自称・優しいお節介さん、一言申さずにはいられない中立マン、世の中に溢れた声の大きい人たちに圧倒されて生きるのってめんどくさいんですよ。
指摘も意見も個人の見解として尊重すべきものですが、じゃあそれってどう考えればいいんでしょうね。多様性を認める認めないとかだと話が大きくなりすぎて難しいので、「そういう考える人もいるんだよね、でも私はこう思う」程度で飲み込めば少し楽になれる気がしました。
リコーダーは素敵な楽器。でも、オーケストラの中でリコーダーは流石に浮くと考える人もいる。
楽譜の読み方は覚えればいい。でも、時間がないときは覚えられないから仕方ないよね。
音楽を愛していればオールオッケー。でも、飛び入り参加するときは仲間内での遊びだけにしておこう。
その程度でいいと思うんです。隣人を愛する前に隣人を睨みつけてる方々には、適度にあしらって今日の晩ご飯について考えましょう。その方がハッピーになれます。
なぜあなたは生きづらいのか
たとえば、病気。数年後には死んじゃうかもしれない不治の病だとか、日常生活に制限があるようなものとか、風邪をひきやすいとか。
あるいは精神障害。気分の波が激しくて自分をコントロールできなかったり、一生薬を服用し続けなくてはならないとか。
ほかにも身体障害、発達障害、セクシャルマイノリティ、毒親に育てられた、その他誰にも相談できないようなことを抱えている場合、生きづらいのは当然です。だってこの世界は平均値の人が生きやすいように設計されてるんだから。
無理してまで頑張るのは必要なことなの?
無理して生きなくてもいいや。そうやって肩の力を抜いて背中の荷物をぶん投げてみてもいいと思うんです。
わざわざ無理する必要はないです。適当に、適度に、なんとなーく、あぁ今日も生命維持に努めてますってくらいでいいんですよ。
無理して縋り付こうとするものって、案外そんな価値ないと思うんですよね。結局勘違いだったりして、投げ捨てると新しい選択肢がでてくるのが世の常でしょう。
生きづらさの原因は過度なポジティブ信仰が原因?
なんとなくありますよね、過度なポジティブ信仰。ネガティブは悪でポジティブは正義みたいな、よくわからない理論で出合い頭に殴りかかってくるような人とか。
今の世の中、断定するのって危険だと思うんですよ。なにが正解かなんて、本人にしか見つけられないことばかりなのに。
webライターとして仕事をしていたころ、クライアント様からの注意事項で多かったのは「ネガティブワードNG」でした。否定的な言葉だけがNGなのではなく「読み手が探しているのは楽しくなる話題」と断定していたのです。
でもそのくせに「導入文には恐怖を煽る文を入れろ」と。「読まないと悪いことが起きるぞ!」と続きを読ませるように促して、「こうならないためにも頑張りましょう!」で結ぶために、内容は明るく前を向く必要があるそうです。
そりゃあそのクライアント様のサイトの傾向ということも理解できるんです。でもね、それを差し引いても、大多数のサイトでネガティブNGにしてるってちょっと恐ろしいですよ。
これって結構危険な思想ですよね。否定NGなのにネガティブは否定するって。
排除していいものは徹底的に排除して、なかったことにする。ネガティブは悪って風潮が生まれるのは、こういった背景があるからなんですよ。
ネガティブにもいろいろあるのに。全員が全員、他者の喜ばしい話に頬を緩めるわけではないのに。
"生きる資格"なんて存在しない
生きるために資格は必要か。yesかnoかの2択なら、あなたはなんて答えますか?
私の答えはnoです。だって、生きていていいよ、って誰かに言われなくても、もう呼吸しちゃってるし。
そりゃあ看護師とかの国家資格があれば就職に困ることもないでしょうし、車の免許があれば雨の日でも快適なお出かけになるでしょうけど、”生きる資格”ってそういうものじゃないでしょう。
勝手に生きて、勝手に死んでいくのが命の道理なのかなって思ってます。
まだ生きていてほしいと願っても、命は尽きるんです。早く死なないかなって思う人ほど長生きするし。
でも、心は違うんですよね。
誰かの言葉に生かされて、誰かの言葉に殺される。
大好きな人に「生きていて」って言われただけで、無条件で「生きていていいんだ」って思えたりする。それも全部本人の選択なんです。
他者の介入によってもたらされた、本人の選択。
毎日目の前の”とりあえず生きる”ボタンを連打して、ご飯食べて、トイレ行って、それとなーくカーテンの隙間からお日様見て、寝る。
その程度のことだと思うんです、生きるって。
生きやすい世界について考えてみた
私にとっての生きやすい世界。万人受けしない世界だとはわかってるけど、少しだけ考えてみました。
理想の世界はこんな感じ。
- 無理して働かないでもなんとか生きていける
- ”みんな同じ”を求めすぎない
- 上司や親が絶対的な権力を持たない
- 公共交通機関はいつ乗っても空いてる
- 外部からの音をシャットアウトできる住宅ばかりになる
- 学校はフリースクールが増える
- 個人の適正や能力が尊重される
- 近所に大きな図書館があってしかもだいたい空いてる
- 困ったときの逃げ場所は常に一定数存在する
ざっと思いつくだけでこんな感じです。かなり自分だけに都合のいいようになっています。
引きこもりがちで疲れるとすぐに聴覚が過敏になる私。人混みも狭い空間も苦手なせいで、都会の電車に乗れない。
だからって近所のスーパーまで徒歩1時間とか、そういうのも困る。広い家に1人ぼっちで毎日暇を持て余すことになったら発狂してしまうだろう。
そうなったらどうするか。私にとっての生きやすい世界と、もうすぐ5か月になる元気いっぱいの息子が生きやすいと思う世界は違うから、この案はボツです。
じゃあ、せめて逃げ場所だけは確保したい。物理的な逃げ場所と心理的な逃げ場所の両方は、せめて誰にでも等しくあってほしいと思う。
この逃げ場があるかないかが、人間の成長に重要なんじゃないかなぁ。
いまさらながらの自己紹介
こももも もちこ
高卒専業主婦です。20代後半に差し掛かってます。
保有資格は原付免許のみ。
母親としては超初心者。唯一の自慢はポケモン歴20年以上ってことだけ。
現在精神科に通院中。通ってて意味があるのかと問われると私の場合は返答に困る。